エッセイ |
エッセイ7 |
初心・忘れがち |
川端利彦(かわばた・としひこ) (医師) |
医学部を卒業してすぐに、ある病院にアルバイトに行った。まだ医師の資格は持っていなかったので、すべて先輩医師の指導に従うことになった。そこには、内科と精神科があった。私は精神科を志望していたので、精神科のK医師の指導を受けることになった。 「君は精神科をやるつもりか?」 「はい、そのつもりです。1年間お世話になりますが、その間にどんな本を読めばいいでしょうか」 K医師はじっと私の顔を見つめながら、 「君は本を読んで精神科をやるつもりか?」 「・・・・」 「とにかく明日から私の言うとおりにしなさい」 「はい」。 翌日、K医師についてはじめて病室に行ったところ、じつにさまざまな患者さんがおられるのにおどろいた。その中に、畳の上に横たわり、片足と片手を上に挙げたとても不自然な姿勢でじっと天井に目を向けたままの男性の患者さんがおられた。「どうしたんですか?」とたずねても全く答えが返って来ないどころか、ほとんど瞬きもしないその様子を見ていると、周りのことは全く分かっていないように思えた。 「この人に昼の食事を食べさせてあげなさい」とK医師に言われてとまどっているうちに、昼の食事が運ばれて来た。看護婦さんに「あなたの役目でしょう」と、ごく当たり前のようにその患者さんの食事を手渡された。仕方なく、横に座り込んで「さあ食事ですよ」と言っても、ご飯を箸にはさんで口元まで持って行っても何の反応もない。「いつもこんなふうですか?」と看護婦さんたちに尋ねても、わざとのように何も言ってくれない。途方に暮れて、医局に行きK医師に事の次第を話した。「まあ、だんだん仲良くなることだね」「えっ誰とですか?」「患者さんに決まっているではないか。あの人はあれでよく分かっているんだよ。まあ、もう一度挑戦してみなさい」と言われて病室に行ってみておどろいた。食器は空になっていて、その患者さんの口元には、いかにも食べましたよというように、ご飯粒がひとつくっついているではないか。 翌日、私はあえてその患者さんの昼の食事の介助を申し出た。同じ姿勢で一見無関心に見えるその人の横で20分ばかりねばった後、わざと「トイレに行きたくなった」と言って部屋を出て、ドアのかげから様子をうかがったが一向に動きがない。そのうちに本当に尿意をもよおしてトイレに行って戻ってみたら、なんと食器が空になっているではないか。「やられた」というより、「私はずっとこの人に見られていたんだ。この人は何も分からないような顔をしているが、本当は周りのことが全部分かっているんだ」という驚きの気持ちでいっぱいになった。 当時、保護室と言われる個室に入れられて、ドアをたたき続けながら、訳の分からないことを叫びつけでいる中年の男性がおられた。「あの部屋に一緒に入れてもらいなさい」と、K医師に言われたときには、「まさか、とんでもない、きっと冗談に違いない」と思ったがそうではなかった。「さあ入れてもらいなさい」と男性の看護士が鍵をはずしてドアを空け、中に押し込まれた。中にいた男性にうさんくさそうに見られた時には、思わず「すみません、しばらくここにおらしてください」と頭をさげた。それでも私のことを気にしているようすなので、なるべく邪魔をするまいと、部屋の奥の隅に小さくなってすわりこんだ。 しばらくすると、その男性はいつものように大声で叫びながらドアを叩きはじめた。私は思わずほっとした。そして、その声に耳を傾けはじめた。聞いているうちに、その人の訴えていることがだんだんに分かってきた。どうやら「昔の友達に、おれはだまされた、お前はだまされないように気をつけろ」といった内容である。さらに聞いていると、その人なりの世界があり、その人なりの言い分があるらしいことが推察できた。決して訳の分からないことを叫んでいるのではなかった。 やっと外に出してもらった後、K医師に私の感じたことを話すと、「それが分かればいいんだ」といつになくやさしく言われたことを思い出す。 ある日、「君は碁ができるか」とK医師に言われた。「ほんの少しかじった程度です」と答えると、「あの人に教えてもらいなさい」といわれた。あの人というのは、一見ぼんやりした表情で、いつも独り言を言いながら病室の中を歩き回っている男性である。この時も、私は冗談ではないかと思った。とうてい碁ができるようには見えなかったし、話しかけてもそれに乗ってくるようには思えなかったからである。ところが、私が「碁をしませんか」と話しかけた途端にびっくりしたように私を見つめて、「碁をやるか。碁盤を持って来い」と言われたのである。碁盤を前に座り込んだ彼は、いつもの彼とは違って見えた。さてはじめてみると、私など及びもつかないことが分かった。後でK医師に、その人が元々プロの棋士であることを教えられた。その後、私はその人と顔を合わせるごとに「碁盤を持って来い。教えてあげる」と言われるようになった。 1年間、その病院にいてK医師から学んだことは、どの患者さんもそれぞれの病気の世界と、その人なりの生活の世界を持っていて、その間をとまどいながら行き来しているらしいということ、一緒にそばにいて、あるいは向かい合って、きっちり付き合えば、分かり合えることがたくさんあるということであった。 K医師は酒が好きで、よく飲みにさそわれた。まず、うどん屋で「すうどん」を食べてから、「いざ出陣。今から7軒を回ろう!」しかし、1955年の当時はまだ飲み屋が少なく、7軒も見つけるのは不可能に近かった。それよりなにより、K医師は3軒目か4軒目でほとんど酔いつぶれるのが普通であった。 そんな時、「酔っ払って家に帰れなくなったら病院にもどって、看護婦さんの目を盗んで病室の隅に寝ろ。夜中に患者さんがそっと毛布を掛けてくれるようになったら、お前も一人前の医者だ」と言われた。幾度か試みたが、一度もそういうことはなかった。 当時は、今のような治療薬はなかった。私がその病院にいた年にはじめて、向精神薬のはしりが日本に登場した。しかし、当時の医者は実に慎重で、ごく少量の投与を試みるくらいであった。 今のようにさまざまな薬があったら、私の出会った患者さんはもっと楽に過ごせたかもしれない、と思う反面、今も少なくない大量投与の対象になっていたら、私が出会った患者さんたちが、それぞれに持っていたあの世界はとっくに消されていて、あんなふうに、当たり前に出会えることはなかったろうとも思う。 まずは、同じ人間として当たり前に出会って、お互いに分かり合うこと。そこから、医者としてできることを考え、患者さんと相談しながら、その人にとって役に立つこと、その人が本当に納得できることを見つけて行く。K医師に教えられたこのような初心を、ともすれば忘れがちになるこの頃である。K医師はその後、交通事故で亡くなられた。心からご冥福をお祈りしたい。 |
------- 初出 このエッセイは、りぼん社(注)のニュースレター「そよかぜ」97号から、 筆者と編集部のご承諾をえて、「障害者欠格条項をなくす会ニュースレター」 9号(2000年10月発行)に転載しました。 (注)りぼん社編集部のホームページURLは http://www.hi-ho.ne.jp/soyokaze/ 季刊「そよ風のように街に出よう」など発刊情報があります。 |
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