エッセイ


エッセイ10
障害者が教員免許を持っていないのではない
−教育委員会の実雇用率が低い理由−
久米祐子(くめ・ゆうこ)(日教組障害のある教職員ネットワーク準備会会員)
早産で生まれて
 私は、昭和34(1959)年に母の実家で自宅出産で生まれた。2ヶ月以上の早産だったということを、今は亡き母から聞いた。おかげで生まれたときは、あまりにも小さくて、生きてるのか死んでるのかわからず、祖母たちが毎日医者に往診してもらって「生きていますか」と聞いていたという話だ。現在なら病院の保育器に入っているだろうが、当時はそういうものは福岡県の田舎にはなかった。3ヶ月検診で股関節がいまだに形成されていなかったことがわかり、大学病院でギブスを巻いて固定して、股関節の自然形成を待つことになったということだ。
 なぜ私の生い立ちをこんなに書いたのかというと、以上のような経過で脳性まひで生まれた私を、はじめに「教師にしたい」と考えたのは母だからだ。
 私は、小学校の頃まだ同居していた、大学を卒業した叔父(父の弟)から、「おまえみたいなひょろひょろしたやつを、会社が雇ったりはしない。」と、言われた覚えがある。その時に『そうかあ、民間会社は私を雇ってくれないんだ。』と、小学生ながら真剣に考えた。
 そのころは、まだ養護学校というものが近くになくて、普通学校しかなかったことが今から考えると良かった。特殊学級というものも無かった。だから私たち子どもは、全員村の小学校に行くのが当たり前だった。もともと一学年に一クラスずつしかない小学校だったので、その校区の子どもは全員そこへ行くしかなかった。それで私の学年は27人の生徒がいたが、脳性まひの私と筋ジストロフィーの友人、知的障害の友人と、今から思うと3人も障害児がいた。だからこの27人のクラスの中に私がいることは、当たり前だった。
 それで実は自分が脳性まひだとわかったのは大学の頃、先輩たちから青い芝の人たちを紹介されて、彼らと自分の共通点を知ってやっと気がついた。先輩たちは、おそらく、私を見て脳性まひだとわかり、青い芝の人たちと引き合わせてくれたのだろう。
 私は自分が「障害者」だと知った時、これまでの叔父をはじめいろいろな人の冷たい言動を考えると「そうか、それが原因だったのか。」と納得するものがあった。障害児者は「不幸だ」と思う人たちがいるが、障害児者当人は、生まれてからずっとその状況にあるから、別に自分が障害児者で「不幸だ」と意識するはずがない。だいたい「健常者」であった経験が生まれてから一度も無いわけだから当然だ。ある全盲の人が「自分では目が見えないと知らなかった。子どもの頃、近所の友達に言われて知った。」と言っていたのは、私にはとても納得できる。
教員をめざす障害者にとってのバリア
 しかし、自分が障害者で困ったのは、一つは就職できるのか、という小学生の頃叔父から言われた不安だった。おそらく一般会社では雇われるのが困難だろうと私は考えたので、親の勧めるとおりに教育大学に入学した。だが、大学で知り合った人々に聞いてみると、甘くはなかった。
 ポリオのため左手が肩から上に上がらないという先輩がいた。その人は他の大学の工学部にいたが友人たちが企業の内定が決まっていくのに、自分は入社試験を受けるたびに障害を理由として落とされて、やむなく、公務員だったら何とかなるかもしれないという理由で、その大学を卒業してから、教育大学に入学してきたという。しかし、その先輩は、後から知ったことだが地元の教員採用試験で落とされたとのことで、その一度の不合格で教師になることを諦めたということだった。
 足が不自由な後輩もいた。彼は大学に入学してから、中学教員の単位を取るために学生課へ相談に行った時に、「今免許を取るなら、小学校の方がいいよ。中学校は、教員の採用数が少ないから難しいから。」と言われて、「僕は足が悪いんですけど」と言うと、相手はあわてて「そんなら中学校の方がいい。」と言い直したということだった。彼は、その学生課職員の対応を見て「今中学校が難しいと言っておいて、障害があるとわかると中学校の方がいいなんて、僕はどちらも難しいと言われたようなもんだ。」と悲観して、教師になるのをあきらめ、それから毎年地方公務員の中級試験を受け続けた。これも後で知ったことだが彼は大学3年の時に公務員試験に受かり、「このまま大学をやめるのはどうだろうか・・・、卒業したいのに。」と悩みながらも、やめていったということだった。
 それから、脳性まひの私が教師になっていることをどこかで聞いて、「障害がある人も教師になれることを初めて知った。自分も教師になりたかったが、免許をとっても障害がある人は教師にはなれないと聞いて断念した。」ということをメールで伝えてくれた、地元の障害をもつ人もいた。
 私自身も、大学在学中に地域の活動をする中で知り合った市の職員という人から、「今度障害者の人たちの売店を始めるから、一緒にやらないか。」と誘われた時に、「私は教員免許をとっている最中で、教員採用試験を受けるので。」と言うと、彼は皮肉に笑いながら「障害のある人が教員免許を取ってもねぇ、何にもならない。」というようなことを言ったので、とてもいやな気分になったことがある。
 しかし、その頃の私は「障害児を普通学校へ!障害者を教師に!」をモットーに活動していたので、誰が何と言おうと私は教師になる、と考えていた。それが3回目の教員採用試験でやっと成功したのは、先に結婚して上の子どもを出産した翌年だった。
 私は、子育てだけで終わってしまった母の人生を見ていたので、専業主婦にはなりたくなかった。ところが、私が教員採用試験を受けると知ると、配偶者をはじめ反対する身内が多かった。子育てだけでも障害者には大変なのに、教師になっても子育てと教師と両立できず、続くわけがないというのだ。もちろん、障害者が受験してもほとんど採用されない、という現実を知ってやんわり反対していたのかもしれない。しかし、私は結婚や子どもがいるぐらいでは、教師になるのを諦める理由にはならないと思っていた。
教育委員会の壁、「健康診断書」の問題
 以上のような紆余曲折の後にやっと教師になった。しかし、私がこんな文章を書いているのも、障害者が教師になることへの有言無言のいやがらせ・妨害があるのを知ってもらいたかったからである。
 2007年に厚生労働省が38都道府県及び政令都市教育委員会に対して障害者雇用を改善するよう勧告し、教育委員会の障害者雇用の達成率が、あまりにも低いことが新聞各紙に報道された。その際に、文部科学省はその理由を「教員免許を持っている障害者が少ないため」と答えていたが、これは大きな間違いである。
 第一に都道府県教育委員会が障害者を採用して来なかったこと、つまり障害者が受験しても障害があることを理由に不合格としてきた長い歴史がある事実を、「教員免許を持っている障害者が少ないため」と障害者の側の理由にすり替えている。
 事実は、私が述べてきたように、教員免許を持っている障害者は法定雇用率を満たす程度はいるのだ。しかし、教員免許を持っている障害者が受験しても不合格として採用してこなかった事実が、いろいろな形で「既成事実」として定着し、途中で採用試験の受験すらあきらめさせるような「親切な」助言などになって横行し、それを聞いて断念した障害者が圧倒的に多い。
 第二に、通信教育・放送大学など個人で教員免許をとる時に、「健康診断書」を提出させて、そこに身体的障害の有無を医師に記入させる欄を設けている例が多い。これは、「その職に堪えうるかを医師に判断させるための欄」となっている。私のように脳性まひがあると、医師がどう判断して書こうか私の目の前で悩むので、私はその医師を説得しなければならなかった。これでは、説得する方法が分からない人は「教師になるのは無理だ」と教員免許を取得する段階で断念するケースもあるという事実も存在する。大学や専門学校等で、集団で免許が申請される場合は、医師の診断書は求められない。教員免許をとるのは、こちらの場合が多いので、障害があろうと単位さえとれれば教員免許を取得することができることが多い。
 これらを考えると「教員免許をもった障害者が少ない」というのは一見障害者の側の責任のように見えるが、実は「教員免許を、障害者にとらせにくくしてきた」という教育委員会及び文部科学省の責任なのである。
 なぜなら教員免許を発行するのも、各都道府県教育委員会だからである。それをわかっていて、「教員免許をもった障害者が少ないから」というのは、責任を障害者に押しつけた言い方で、教育委員会に責任はない、という責任のすり替えである。
 これらの事実すら隠したがるのが教育委員会というもの。一応子どもたちには「差別はいけない」と教える義務があるのに、自分たちが率先して障害者差別をしていたことを隠したいのだろう。だが、毎年の実雇用率を新聞などのマスコミに公表されれば、そうも言っておれなくなる。なぜなら、福岡市などは先に書いた2007年の厚労省の雇用率未達成についての勧告が新聞紙上に公開されてから、教員採用について障害者枠を初めて作った。このように、マスコミに取り上げられ指摘されて初めて「それは問題だったのか」と、やっとわかるのが各都道府県教育委員会というものなのである。したがって、各都道府県及び政令都市教育委員会に法定雇用率をまもらせるためには、その年の実雇用率を、毎年新聞紙上などマスコミで公開し、問題にする必要がある。
教職員のネットワークでめざしていること
 また、私たちは一昨年度やっと日教組内に障害のある教職員ネットワーク準備会を立ち上げた。その理由は、私のように生まれつきの障害のある教職員は言うまでもないが、教師になってから過労や病気・事故などで中途で障害を持つに至る教師が多くいる。しかし、これまでそうなった人たちの大部分が、病気休暇から休職へ至り、そして最後に退職していった。
 なぜ、そうなるのかというと、例えば職員用トイレには洋式トイレすらなく、まして、スロープやエレベーターもない校舎がほとんどである。つまり、病気休暇から復職しても、合理的配慮がなされないままの職務をしいられて、今度は休職し、そしてまたもや合理的配慮のない現場へ復職して、最後に退職に追い込まれていったのである。
 私たちはそんな働くための合理的配慮も無く働かされ、そして退職を迫られていった同僚を何人も見送ってきた。そして、このように合理的配慮をおこなわないことを当然の前提としていることが、障害者を教職員に採用してこなかった原因でもある。地域住民の緊急時の避難所に学校を指定している自治体が多いのに、これでは避難所として使うこともできない。
 このような現状を変えるために、この「障害のある教職員ネットワーク準備会」を作る運動をしてきた。今後、障害のある教職員が安心して働くための合理的配慮が自然にできる学校現場にしていきたい。それは、単に障害のある教職員のためだけでなく、障害のある児童・生徒がごく当り前に地域の学校にいられるような条件整備でもあるし、ひいては緊急時の避難地となる校舎を障害者や高齢者などのすべての人々に安心して過ごせる場所にすることでもある。

初出 障害者欠格条項をなくす会ニュースレター52号 2011年11月発行
中見出しは通信係
久米祐子さん著作「梅根悟の障害児教育論の相克」日本教育学会70回大会要旨収録 ほか


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