「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び 観察等に関する法律(案)」への意見書 |
2002年5月10日 |
衆参両院の国会議員のみなさまへ |
DPI(障害者インターナショナル) 日本会議 議長 山田 昭義 全国自立生活センター協議会(JIL) 代表 中西 正司 障害者欠格条項をなくす会 共同代表 牧口 一二 大熊 由紀子 この意見書について連絡先 障害者欠格条項をなくす会 〒101-0062千代田区神田駿河台3-2-11 DPI障害者権利擁護センター気付 TEL 03-5297-4675 FAX 03-5256-0414 |
「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者の医療及び 観察等に関する法律(案)」への意見書 |
われわれ(障害者とその仲間)はいま、30年ほど前を思い起こしています。当時、あるいはそれ以前の障害者の多く(とくに脳性まひ者)は、何らかの改まった社会的行事などが催されるとき、表通りには姿を出さないよう(そう、清掃車がゴミを片づけるように)目立たないところに閉じ込められていたのでした。また、障害児のいる家庭では、その子の将来を悲観してかどうか肉親による子殺しや親子心中が続発していたのでした。こうした社会現象は、まさに当時の障害者観を反映したもので、障害者は「恥ずかしい存在」「あってはならない存在」だったのです。 そうした状況に気づいた脳性まひ者たちは「われわれはいつ殺されるかわからない存在であることを自覚して、人間解放に立ち上がろう」と高らかに呼びかけたのです。その声に、それまで親や施設の庇護・恩恵のもとでひっそり生きるしかなかった全国の障害者たちは血が逆流するほどの勇気をもらったのです。たとえば、車いすを足にする障害者たちは何の配慮も設備もない街に敢然と繰り出したのです。 それから30年、誰も排除しない人間の街づくりに向けて社会は大きく変わろうとしています。「バリアフリー」という言葉が一般用語としてごく普通に語られるようになりました。そしていま、物理的バリア(ハード面)から欠格条項のような制度的バリアや精神的バリア(ソフト面)へと課題が移行しています。本来、この両面はどちらが先かの問題ではなく、車の両輪のようにハード面とソフト面がバランスよく進行するのが人間社会のありようですが、ソフト面は曖昧でわかりにくいことから、形があって見えやすいハード面が優先されてきたのでしょう。また、ハード面もじつは人の心につよい影響を与えてきたようで、誰をも排除しないバリアフリーの多様な構造は、知らず知らずのうちに人々の心に(あっ、私が障害者になっても生きていける、と)安らぎとやさしさを育んできたのです。このように、障害者が地域社会の中で息ずくことは市民一人ひとりの心をひらくことになってきました。 いま、精神的な(あるいは知的な)障害がある仲間たちの状況は、30年以前の脳性まひ者たちの状況に酷似しています。30年の障害者市民運動が立証してきたように、精神的障害者は「恥ずかしい存在」でも「あってはならない存在」でもなく、「社会をより人間らしくする存在」です。人は誰でもすっきりと割り切って生きているのではなく、迷い、戸惑い、佇みながら生きていて、それこそ人間らしい営みです。 取り返しのつかないような大事件が起こったとき、「あやまちを二度と繰り返したくない」と思うのは、大多数の素朴な願いです。そのために原因を探るのも人間の智恵でしょう。しかし、まことしやかな理由を聞くだけで納得し(偏見)、「安心」を得ようとするのは人間の弱さ(というより醜さ)ではないでしょうか。少し冷静に自分自身のことを考えてみても、人間はそれほど単純ではないことに気づきます。「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行った者」を閉じ込めることで重大な事件が無くなる(あるいは少なくなる)と、本気で信じて法律をつくった国が、日本以外にあったでしょうか。これは偏見にもとずく「気やすめ」にすぎないわけで、「自分の安心」を「他者の不安」と差し替えていいはずがありません。 たとえば、この新法が出てくるきっかけになった池田小の大事件で考えてみますと、事件後ただちに社会が取った対応は、校門を閉めること、防犯カメラの設置、警備員の配置などでした。「これで再発を防ぐことができる」と、誰が本気で思ったでしょう?「気やすめ」「言い訳」に過ぎないことは誰もがわかっているはずです。なのになぜ、そのような対処になってしまうのでしょうか。 ほんとうはこんな時こそ校門を開放すれば、より安全な状況が生まれるのに…そう思えてなりません(これは感情論ではなく冷静な判断だと考えているのですが、この世では説得力がないようで、障害者の存在価値を論ずるのと同じほど難しいです)。ひとりの親しい障害者がふと語った言葉が、とても印象に残っています。彼は高層団地の7階に住む夫婦二人暮らし。あるとき、団地のエレベーターで殺人事件があり、その数分後に彼はそのエレベーターに乗ったそうですが事件に気づかず、まもなく知ることになってびっくり。やはり数カ月は怖くて、鍵をしっかりかけるよう夫婦で話し合っていたそうです。ところが、隣りとその隣りのおうちには小さな子どもたちがいて、「ドアはほとんど開けっ放しなのに子や親たちが行き交っていて危険な感じがまるでないんだよね。ふしぎにも締め切ったわが家のほうがはるかに危ない気配が漂っていたんだ」と言ったのです。人間がさまざまな思いで集い合う社会、そこに生まれる空気をよく言い表しているなぁ、と感じたのでした。 立証できなくて、まことに悔しいのですが、「◇◇すべき」という堅い社会はより多くの犯罪を生み出すようです。一方で、人と人とが寛容で許しあえる柔らかな社会は犯罪が少なくなることでしょう。 いま国会議員のみなさまがなすべきことは、精神病を体験した人たちが、安心して治療を受け、街で暮らせるための法律や制度をつくることです。他の先進諸国のように。 ここ数年の「犯罪白書」をみても、「犯罪の確率は、初犯も再犯も精神障害者でない人のほうがはるかに高い」と統計を揚げています。 |
以上 |
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