運輸省海上技術安全局船員部船舶職員課への意見書


1999年12月24日
運輸省海上技術安全局船員部船舶職員課「プロジェクトチーム」のみなさま

障害者欠格条項をなくす会 代表:牧口一二/大熊由紀子

事務局:東京都新宿区高田馬場4-28-6 光楓マンション101

電話:03-5386-6540 FAX:03-5337-4561

DPI(障害者インターナショナル)障害者権利擁護センター・気付
【提案にあたって】

 1999年もあとわずかとなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。

 さっそくですが、運輸省海上技術安全局船員部船舶職員課「プロジェクトチーム」の方々に、あらためて「障害」とは何かを考えていただき、障害者の置かれた状況を再認識してほしいと切望し、この意見書を提出します。障害者の声を聞き、現行の欠格条項を見直してほしいのです。

 きっと、そのほとんどが障害者に機会を与えてあと押しする法律ではなく、障害者の意見も聞かずに門前払いしているものだと気づかれることでしょう。私どもの怒りはここにあり、早急に私どもの意見を取り入れてほしいと願うものです。

 運輸省管轄で過去につくった障害者欠格条項について、近年、再検討が少しずつ進みました。1998年に総理府に報告した欠格条項のうち、「旅客自動車運送事業等運輸規則」「海上運送法」について、精神障害者の乗客に関する欠格条項が、1999年に廃止となりました。

 たとえば色覚を理由とした欠格条項については、1999年新設された五級小型船舶操縦士免許において、眼科的検査で「強度異常」と判定されても、実際のブイの色で作られた塗色板テスト器が正読出来れば合格となりました。しかし、この他の海技免許において色覚欠格は存続しています。

 基本的に提案したいのは、実際に必要なことは何か、その人の状況に応じて何が可能で、どこが不可能かを実際的に調べ、必要な支援をしていく工夫をさぐることです。それには当事者との共同作業が不可欠です。

 当事者との共同作業を抜きに、あらかじめ障害を理由とした欠格を設けるべきではありません。これは何の障害に限らず、言えることです。

 運輸省が近年、当事者の切実な声を受けとめて見直し、廃止に着手してきた姿勢を評価していますが、同時に、長年、合理的理由なく障害者の社会活動の機会を奪ってきたことへの反省を明確に持って欲しいと望みます。単に法文の欠格条項を変更すれば良いというだけでは不十分です。なぜなら、法律にいったん定められた欠格条項は、自治体の条例や民間の就業規則のモデルとなって広く普及してしまうのです。

 たとえば、各地では市営バスに車いすの障害者などが付添い者なしでの乗車を認められないことがたびたび起きています。そうした悪影響を払拭することも課題です。自信をもって作業を進めることを強く期待します。


【欠格条項、その問題点】

 1970年代に入って、全国各地の障害者が立ち上がり人権を求める運動を展開してきました。親のもとや施設ではなく、ひとりの市民として地域で暮らすことを願い、30年前の、高齢者や障害者への配慮がほとんどなかった時代に、全国の障害者たちは危険を覚悟しつつ体を張って街に繰り出しました。それが、バリアフリーのまちづくりの第一歩であり、障害者自身による人権運動のはじまりでした。

 そして1981国際障害者年と「障害者の10年」などを経て、現在では駅や建造物などにエレベーターや障害者用トイレが急増し、点字ブロックや案内表示など、さまざまな障害者への配慮が目につくようになってきたことはご承知の通りです。住宅や自動車なども、車いす使用者などが不便を感じない設計のものが、数多く普及してきています。

 まだ未完成とはいえ、ここに至るまでに30年を要したのです。

 しかしながら、これらの改善は未だに「福祉」の枠の中で考えられており、「人権」の視点は希薄であると言わざるを得ません。私どもは一貫して障害者差別をなくし、人権を確立するために運動してきたのです。

 どうして私どもの真意は伝わらないのでしょうか?

 それは、まだ個人の特質である「障害」を、個人の「能力」としてしか捉えられていないからだと思います。ほとんどの欠格条項は「障害」をそのように考えていた時代のものです。つまり、「できない」理由を障害者個人の障害のせいにしてしまっていたわけです。

 私どもは、「障害」が障害となる原因は、周りの環境や法制度にあると考えています。個人の能力で「できない」ものがあっても、配慮された設備が整ったり、手助けしてくれる人と人との関係があれば不可能は可能に変わります。

 そうした、お互いに他者の存在を感じあえる社会がもっとも人間らしいと思われませんか?

 国際障害者年の行動計画で謳われた「ある一部の人(障害者など)をしめだす社会は、弱くてもろい」というのは、まさにこのことを表していると思います。この考え方が私どもの基本理念です。

 よく出される例に、全盲の人の自動車運転があります。現在の自動車技術や道路・交通システムでは、全盲の人はおそらく車の運転は困難でしょう。本人にも他者にも危険がともなうことですから。しかし、門前払いで「ダメ」と言ってしまっていいのでしょうか?

 どうか決めつけないでください。

 ナビゲーターが活用されはじめた時代ですから、ひょっとすれば全盲者が車を運転できる時代がくるかもしれません。このような夢のようなことも念頭にいれて法律は柔軟であってほしいと考えます。

 日常的な事例として、障害者が住まいを求めるとき「火を出したとき危ない」との理由で家を貸してもらえないことが非常に多いのです。しかし、事実は、障害のない人の失火による火災の確率に比べて、障害者によるその確率は圧倒的に低いのです。

 このように障害者は頭の中だけで「できない」と考えられてしまうことが多く、そこから偏見と誤解が生じます。現行の障害者欠格条項には、同質の誤解と偏見に基づいて法律化されているものが多くあると思われませんか。

 憲法や法律の基本理念は「人を守り、人を活かす」ために存在しているはずです。


 ぜひとも、障害者欠格条項をすべてなくしてください。

 そして、一つひとつの事例については問答無用の門前払いにするのではなく、可能性を広げようと努力している障害者の話をよく聞き、できる限り応援する、その精神を法律に反映してほしいと要求します。

 私たちは無茶や無理を言おうとしているのではありません。

 過大な保護を求めているのでもありません。

 たいした根拠もないままに、障害があるというだけで不利な状況に置かれてしまう現状を改めていただきたいと申し上げているのです。

 自らの努力により可能性を感じたからこそ、次のステップを求めて関係機関へ相談に出向くのです(この想いは、現状では生きぬくために必死です)。その熱い想いを、政治は今日まで冷たくも門前払いにしてきたわけで、それが欠格条項なのです。


【海技免許・障害者欠格条項の根本的な見直しを】

○海技免許についても障害者欠格条項の根本的な見直しを提言します。

 個人の趣味での小型船操船における、障害者欠格条項は、個々人のニーズに応じて援助者や機器の工夫をすることで、すぐにも外すことができる性格のものです。営業用船、大型船等を含めて、日本の現行の包括的な障害者欠格条項は全面的に見直すべきです。

 たとえば船長であれば、もしも動ける人間が自分一人というような非常事態になっても全ての業務をこなすことができなければならないという職務の特殊性があるといいます。そうだとしても、大部分の乗務員は、連携してその分業を達成できればよいはずです。

 水深を目測するため舷側を降りたり、あるいはマストにのぼったりという伝統的な作業が残っていますが、現在はセンサーや機器も発達しています。

 欠格条項見直しの作業とは、一人の人間があらゆる事をできなければならない、という考え自体を疑うことから始まるのではないでしょうか。直接、その人が職務をおこなう上で問題になることがあれば、工程の工夫や補助する方法、機器の利用、困難な場合は他の職務への転換などをいろいろな角度から考慮し、なおかつ、その職務によっては、視力など一定の条件が求められる場合もあるでしょう。それはその人自身と、具体的な職務と、職場環境等との相互関係で決まる可変的なものです。固定的恒久的ではないのに、あらかじめ法律で決めるのは、障害者にはできないと最初から決めつけていることにほかなりません。

 現在のように、身体検査基準から引き算の考え方をもって、一定程度の障害がある人は欠格とするあり方は、これでよいのかということから、考えなおしてください。

○身体検査は、受験資格や合否基準でなく支援のためのものとすること

 そして、プロセスとして、現在は身体検査の基準を満たすことが受験資格になっていますが、まず試験を行い、身体検査については合否の基準として行うのでなく、あくまでも、環境の工夫や本人との相談、どうしたらできるか支援のために行なうものに、改める必要があります。これについては下に詳細を述べてみます。

○国際比較から

 国際的比較については、すでに「ヨットエイドジャパン」の調査にも明白です。プレジャーポートについて免許制度自体を持たない国が、調査回答国の半分を占めています。営業用船の船長の場合や、高速艇、大型艇、あるいは遠洋航海や荒天、未成年者が乗るときなど特殊条件下では、制限がありますが、こうした場合と個人の趣味での小型船操船とは、区別されていることがうかがえます。個人の楽しみでの操船は、同乗者がつくことや補助具の使用によって安全に操船できれば、障害自体は問わないことが基本です。ところが日本の場合、補助エンジンを装備したクルージングヨットを操縦するには小型船舶操縦士免許の取得が義務づけられ、免許を取得する条件として身体検査基準があり、これが障壁となってほとんどの障害者は免許を取得することが出来ません。日本の、絶対的欠格であれ相対的欠格であれ障害の種別程度を基準とし法律によって欠格とする制度は、世界に例をみないものであることが、調査で明らかにされています。

 なお、日本で欠格条項によって阻んでいる免許や行為について、各国の状況を当会としても調査中であり、いずれ報告としてまとめる予定です。

○海技免許以外についても意見公募を

 今回、海技免許についての意見募集ですが、運輸省管轄では通訳者、航空従事者、動力車操縦者など、海技免許以外の欠格条項についても、廃止を前提に見直す必要があります。

 海技免許以外についても、広く意見を募集し、それを見直し作業に反映させることを求めます。

○検討プロジェクトチームに障害当事者を

 そして、検討プロジェクトチームに、障害者の参画を確保する事が必須です。海技免許ならばそれにかかわって現場経験をもつ人の参画が望ましいですが、少なくとも障害者抜きの検討や議論はすべきではありません。


【プロジェクトチームから提起の事項に沿って】

1.身体検査基準の見直しに当たって、常に気象・海象の影響に晒されなければならないこと、波浪等により船体の動揺が避けられないこと(荒天時を含む)、陸から物理的に離れていること等の、陸上とは異なる海上航行の特殊性をどのように考えるか。

2.身体検査基準の見直しに当たって、自船又は他船の航行安全への影響及び海難発生時(自船における海難発生又は他船の海難への遭遇)の対応をどのように考えるのか。

 上記1.2でいう、海上の特殊性ということは、航海全体にかかわるものであり、障害の有無とは関係しません。このような質問設定がされること自体、障害者は危険、あるいは障害者は遭難に対応できない等の、固定観念が基本にあるのではないでしょうか?

 障害の有無などにかかわらず、たとえば、どうしても船酔いするなど、航海にまつわる条件にあわない人は、やはり、航行はできないわけです。

3.適切な身体検査の方法はどのようなものか。

 説明では「まず、身体検査を受けていただく必要があり、身体検査に合格した方のみが学科試験及び実技試験(小型船舶操縦士免許のみ)を受けられることになっています。」とありますが、身体検査を試験の前に行い、身体検査に合格しないと受験できないという仕組みは全く不合理です。

 方法以前に、身体検査は何のために行うのかを、転換する必要があります。

 提案としては、まず試験を行い、その判定の上で、具体的業務にとって必要な身体検査をし、何ができるか、何ができないか、どのような工夫で可能性が広がるか、よく本人と相談する、そのための身体検査とすることです。検査の内容も洗いなおして、また、具体的業務にとって必要性の認められない身体検査は廃止すべきです。医療機器の測定数値などと、仕事の現場でどうなのかということは、別なものです。

 試験場でのその場かぎりの判定では、正しくその人をみることができない場合がしばしばあります。一定期間の現場実習・研修などの時間をかけて、再度判定する基本方針をもつことを提案します。

 そうしたプロセスを踏んで、それでもどうしても現在クリアできない問題がある、あるいは障害の有無というよりもその人自身が向いていない、危険であるという場合はありえます。私たちは合理的な理由までも否定するものではありません。

 身体検査は、手指欠損といった外見や、聴力視力の測定値などが基準ですが、人の能力は、数値のみで測れるものではなく、経験値でも大きく変わります。たとえば漁師をしてきた人は、経験値が高く、のちに心身の障害をもったとしても、ひきつづき水上の仕事ならできるという場合が少なくないと聞きます。未経験の人も、経験を積むことで色々な可能性が高まり、現場での工夫を見いだせます。

 業務にもいろいろあり、たとえば駅で客対応や事務にあたる人が、電車を運転する人と同等の身体的条件を持たなければならないということはないはずです。最初に身体検査で排除することはやめるべきです。


 以上の提言が、検討過程に生かされることを願うものです。

 どうぞよろしくお願いします。



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