インクルーシブな子ども時代がインクルーシブな地域を作る
桜本保育園見学報告
2018年11月07日 インクルーシブ教育
キリン福祉財団助成で行っている「インクルーシブな子ども時代プロジェクト」では、障害の有無に関わらずともに生き、共に育つ子ども時代のヒントとなる実践を集めています。9月10日(月)は、神奈川県川崎市の桜本保育園に訪問しました。
川崎市は在日朝鮮、韓国人の方々も多く住んできた地域であり、近年はその他の国にバックグランドがある人たちも住んでいます。
写真:道幅の広い雨の商店街
バス停から、道幅が広く、ゆったりとした雰囲気の昭和情緒あふれる商店街を抜けると桜本保育園に到着しました。
■差別から始まったインクルーシブな保育園
桜本保育園は1969年に始まりました。きっかけは川崎教会の韓国人の牧師さんが、子どもを地域の幼稚園に通わせようとしたところ、朝鮮人だからだめだと断られ、それなら教会の会堂を保育園にしようということで始まったとのこと。それ以来2011年まで同じ場所で定員60名の保育園として運営してきました。
7年前、定員90名で同じ地域の中で新築した建物に移ったそうです。現在は一時保育を含め120名前後が通っているとのこと。園内は広々としていて、子どもたちはお昼寝の真っただ中でした。
■地域の子が来るのは当たり前
このように始まった桜本保育園、障害児も地域の子どもが来るのは当たり前ということで、これまでにさまざまな障害のある子どもたちが通ったそうです。
「『入っちゃダメ』と言われて作った保育園なのに『入っちゃダメ』というのは言わないですよね」と朴園長先生。
車いすに乗った子どもがいるときは、子どもたちがその車いすで共に遊んだり、運動会の競技に車いすを使ったりしたこともあるそうです。
また、自分で座ると体に負担がかかると言われていた子どもは、法人が運営するお気に入りの子ども食堂で大人が気づくと普通に座っていたということもあったそうです。
これは横須賀のsukasuka-kidsで伺った話と共通する、子どもたちの学びあいの力でしょう。
■本名を呼び名乗る運動から多文化保育へ
桜本保育園は当初普通の地域の保育園として始まりました。
在日韓国・朝鮮人や他の国にルーツがある人々も住む多住地域でしたが、特に民族保育や多文化保育を目指していたわけではなかったとのことでした。
そのような中、1970年に、日本名で就職活動をし、内定を得た後に、本名と国籍を理由に内定を取り消された青年が、内定取り消しの無効を訴えた日立就職差別闘争が始まりました。保育園の方々もこの闘争に関わりました。
当時は本名を隠すのが当たり前、企業を受けて落ちても当たり前とされていた時代でしたが、裁判闘争を通じて、自分たちの文化的背景は家の中だけで許されている、就職差別、日本名で生きるのが当たり前なのはおかしいということに気づき、保育園で本名を呼び名乗るようになったとのことです。
そこで韓国、朝鮮の文化も保育に取り入れるようになったそうです。
そのうちベトナム難民や南米の日系人、フィリピンの子どもたちも増えてきたことから、それぞれの文化を大切にした多文化の保育を自然と始めることとなったそうです。
保育園の壁には世界各国の言葉の挨拶が書かれていました。
写真:伝統的な太鼓「チャンゴ」に挑戦する福地さん
■地域、行政を変える
桜本保育園の活動は、さらに地域、行政を変えていきました。そのきっかけは、保育園を卒業した子どもたちの声でした。保育園では本名で生活していた子どもたちは、小学校で在日朝鮮・韓国人であるという理由でいじめを経験しました。その子どもたちを学校で帰ってから地域で受け止める場所を作るため、学童保育を始めたそうです。
1980年代の初め頃、その学童保育に通う子どもたちから「先生たちは私たちの後ろにいるだけじゃん。私たちは本名で毎日戦っているんだよ」と言われたそうです。そこで学校での差別をなくすための教育委員会交渉を始めました。
最初の2年ほどは「日本人もいじめられる」となかなか話が進みませんでしたが、「学校に差別があることを認めた」あとは、教育委員会も動き、1986年には「川崎市在日外国人教育基本方針-主として在日韓国・朝鮮人教育-」が制定されます。
そして、最初は三校が人権尊重教育のモデル校になり韓国・朝鮮や外国の文化などを学び、また、民族文化講師ふれあい事業が川崎市で始まりました。
さらに小学校を卒業して、中学、高校となると学校からはみ出す子どもたちも出てくることから、その子どもたちの活動の場と、地域を繋げることを目的に、1988年に川崎市ふれあい館が作られました。
この会館は現在地域の拠点として、市民の音楽、ダンスなどの活動の場であり、日本語を学ぶ人々の授業を開講する場であり、子どもたちが遊びに来る場になっています。
この会館ができたことで、この地域では「アンニョン」とあいさつすると「アンニョン」と返ってくるそうです。
また、障害のある人たちも多くこの会館に来ていたことや病院が近くにあることから1990年代ごろから商店街がバリアフリーにする取り組みも行っていたそうです。
たとえば、商店街の道の両側に排水用の溝があると車いすで入店しにくいため、道の真ん中をへこませて排水できるようにしているそうです。
桜本保育園は、さらに障害児が地域の学校に通うための交渉も応援していました。
地域の子として当たり前に保育園に通っていた卒業生が、地域の学校に行くのは当たり前ということです。
バリアフリーな出入り口
■最後に
差別されたことから始まった桜本保育園は、国籍、障害に関わらず地域の子どもを受け入れ、地域を巻き込み、誰もが住みやすい地域作りと子ども時代を作ってきていました。
その過程で教育委員会等の行政も変革してきました。
一方で、道を隔てると「この地域に在日朝鮮、韓国人はいません。」というような地域がある、ヘイトデモが押し寄せる等、インクルーシブな地域を広げるには粘り強く進まなければなりません。
障害児にしても、まだまだ地域の普通学校への通学が当たり前には認められないのが現状です。
しかし、今回の見学で私が感じたのは、むしろ桜本保育園とそこに関わる方々の強い信念、柔軟さ、そして周りを巻き込む不思議な魅力でした。
差別されたことがきっかけでできた保育園だからこその排除は差別の問題として誰でも受け入れる強い信念、子どもたちの声等その時必要と感じたことを始める柔軟さ、最初は猛反対された川崎市ふれあい館を「地域の宝」と町内会の長に言わせるほどの地域を巻き込む魅力、これは桜本保育園の強さの秘密だと感じました。
このような方々と繋がり、実践から学びつつ、国籍、障害に関係なく排除されない子ども時代を作るため、本プロジェクトも進みます。
最後になりましたが、見学を快く受け入れてくれた朴先生、当日ご同行いただき、このプロジェクトを実現させていただいているキリン福祉財団の山形さんに御礼申し上げます。
(インクルーシブなこども時代づくりプロジェクトメンバー 福地健太郎)