エッセイ


エッセイ4
「障害」者であるがゆえに
二日市安(ふつかいち・やすし)
(障害者総合情報ネットワーク代表)
 手足の動きがままならず、言語に聞き取りにくい点があるという理由で、特定の集団から排除された体験は、これまでの生涯であまりにも数多いので、全部は書ききれない。
 いちばんくやしかったのは、1943年の春、とうぜん受けるべき中学(いまの言い方での旧制中学)の受験から排除されたことである。ただしこの件は、当時の軍国主義体制のなかでのできごとなので、まさか繰り返されることもあるまいと思う。ただ、万一にも戦争もしくはそれに類する状況が社会を取り囲んだ場合、最初に排除の標的になるのが「障害」者であることだけはわれわれの共通認識とすべきであろう。戦争に参加して殺人を実行することができず、殺人のための兵器を生産することのできない「障害」者は、教育を受ける機会すら奪われてしまうのだ。
 もうひとつ書いておく値打ちのある体験は、戦後の1960年代のできごとである。まだ三十代になったばかりのわたしは、通信教育で大学の卒業資格を取ろうとした。小学校だけしか卒業していないわたしのような人間の場合、通信教育を受けて個々の科目の単位を取得しても、卒業資格の獲得には通じない。たしか当時は「進学適性検査」というような名称で呼ばれていたと思う。その検査を受けるためにわたしは通信教育の実施校である某大学に出かけていった。そして試験場への入場をあっさりと拒まれてしまったのである。
 なぜ入場を拒まれたのか、事情はよくわからない。なにしろ当時のわたしはまだ世なれておらず、きちんと論理的に抗議することが苦手だった。試験官があまりにも当然という顔をしてわたしの入場を拒んだのに気を飲まれてしまったのかもしれない。とにかくわたしはすごすごとその大学の校舎を出て電車の駅に向かった。校舎と校庭を囲む白い壁が駅の近くまで延々と続いていたのだけははっきり覚えている。
 この大学にはたまたま間接的な知人が勤務していたので、その人を介して事情を問い合わせた。試験を実施した事務当局の見解なるものが、すこしあとで電話で伝えられてきた。要するに、わたしの「障害」が原因で試験場にはいるのをことわったが、あとで検討した結果、その措置が誤りであったことがわかったので、改めてもう一度検査を受けにきてくれというのである。その返事を受け取ったころには、わたしは資格取得についての意欲も関心も失ってしまっていた。そして通信教育そのものに対する興味すらなくしてしまった。
 この件をそれっきりで放り出してしまった当時のわたしの態度は、いまから考えると首尾一貫しない不徹底なものだったといえよう。そしてこの不徹底さに対する言い訳として、それ以後のわたしはあらゆる試験や資格を信じることのない人間になってしまった。「障害」を持つという理由だけで人を排除するような制度は、どっちみちたいして価値のあるものではないという牢固とした哲学を自分のなかにつくりあげてしまったのだ。それが幸なのか不幸なのか、自分でもわからない。
 その一方ではときどき奇妙なことを考える。「障害」を持たない人間が、いったんある資格を取ったあとで、「障害」を持つようになった場合、その資格はいったいどうなるのだろうかという疑問である。たとえば自動車運転免許はどうなるのだろう。電気工事士免許は?レントゲン技師免許というのもあったはずだ。そして、ひと財産費やすだけの値打ちがあるといわれる医師免許は?
 たぶん上に挙げたもののいくつかは「障害欠格条項」に該当するとされているもののはずである。たぶん社会は、「障害」を持つ者を失格にすることによって、制度そのものに対する不信と不安を助長しているだけではないのだろうか。平生はカギカッコつきの表記などしたことのないわたしだが、この話をするときはやはりカギカッコをつけたくなった。

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初出 「障害者欠格条項をなくす会ニュースレター」5号 2000年3月発行
「障害者総合情報ネットワーク(ビギン)」は、2004年度からDPI日本会議と統合し、その情報発信の活動は、DPI日本会議が引き継ぐことになる予定。


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