エッセイ どんなふうにやってきたの−合理的配慮をもとめる現場から


その3
地方公務員としての35年間を働いて
八柳卓史(やつやなぎ・たくし)
(自立生活センターHANDS世田谷)
はじめに
 最初に簡単な自己紹介をします。障害は幼児期のポリオの後遺症による下肢障害で、現在では歩行は100mぐらいまで出来ますが、それ以上は車いすを使用しています。年齢などは以下の話から推測できるので省略します。

区役所に入ったいきさつ
 1971年の暮れ、大学4年生だったころ、東京の飯田橋にある職業安定所を訪問しました。当時は、障害者担当の窓口などは全くなく、一般の求職窓口でした。応対した担当官は、僕を一目見るなり、「不景気になりそうなので、障害者じゃ普通の企業はまず無理ですね、公務員試験が来年の夏以降にあるので、受けられるものは全部受けてみるしかないと思いますよ。ただ、大学生なら就職浪人より留年した方がいいかな。」と素っ気なく告げただけでした。求職活動なんて全くやっていなかった自分の落ち度もあったので、そのときは、そんなもんかなと思い、とりあえず留年して、アルバイトで1年間つなぐことにしました。
 1972年の夏以降、東京都の短大卒程度と国家公務員の中級と初級試験を受けました。大卒資格の試験は、受かる自信は全くなかったので、始めからパスしました。もちろん、当時もいわゆる「出世」などに全く興味はなく、食べられればいいという気持ちでした。
 筆記試験は、とりあえず合格しましたが、問題なのはその後の面接でした。国家公務員は厚生省などいくつか面接しましたが、面接官に雇う気持ちが全く見えない「哲学論議」ばかりでした。
 国家公務員の面接をいくつか受けている間、東京都採用の試験時に第1希望で書いていた荒川区役所(当時は区の職員は東京都の採用で、区へ派遣という形を取っていました。)から、面接の連絡がありました。実は指定された日、寝坊をしてしまい、「風邪をひいたので、今日は行けません。」と連絡したので、「ああ、もうだめかな。」と思っていたところ、約1週間後、「再度、面接をするので明日、来庁できないか」と連絡があり、さっそく面接に行きました。質問されたことは、通勤手段のことと職場環境の配慮の必要性の有無だけだったので、雇う気持ちをひしひしと感じました。数日後、採用しますと電話連絡があり、残っていた国家公務員の面接予定はすべてキャンセルしました。
 あとで聞いたところによると、当時採用した事務職員50人ほどのうち、第1希望で荒川区を指名していたのは2人だけだったとのこと。もう一人と違い、僕の場合、勤め先が家に一番近いという理由だけだったのですが。

最初の職場は戸籍課
 1973年の4月から新人として配属されたのは、戸籍課の住民登録係。住民票の移動についての連絡担当でした。ただ2週間もしないうちに、外国人登録担当に担当替えとなりました。これまで担当していた人が、精神的に不調を訴え、八柳ならどうせ新人という理由でした。
 当時の外国人登録事務担当は6人で、一番ベテランの人が僕と入れ替わったので、2人が2年目、あと4人は1年目という状況でした。外国人登録事務が機関委任事務であるという性格もあって、仕事のリーダーは職制上居ないので、仕事のやり方や疑問は6人で話し合って決めるという、非常に民主的な職場でした。ほとんど座って行う仕事で、普段の事務量は比較的少ないので、ゆっくり話し合える雰囲気がありました。ただ、外国人登録の仕事は、自治体業務の中でもかなり権力行政の度合いが強く、さらに当時、指紋押捺の義務を強いていた時代でしたので、内部事務はともかく窓口事務はよりつらく感じました。差別の怖さを差別する側の立場で露骨に味わった時代でした。自分自身が障害者であり、差別される側の人間であることも、当時、窓口に転入手続きに来られた、在日韓国人の映画監督との交流の中で気づかされたことです。この時代がなかったら今の僕はないと思います。
 そんな中で、同じ職場の同僚にスキーの名人の先輩がいて、スキー旅行に誘われたことがありました。もちろん僕はスキー板ではなく、子供用のプラスティック製スノーボートで、平坦なところは引っ張ってもらい、リフトやロープウエーを乗り継いで山頂に近いところまで行き、雪まみれになって滑り落ちたことは、とても楽しいさわやかな思い出です。

障害者の10年の中で
 1981年から始まった国際障害者年の4月、福祉課に異動しました。6月に組織改正があって、障害者福祉課が創設されました。これまで福祉事務所の行ってきた身体障害者福祉司、精神薄弱者福祉司(現在は知的障害者福祉司)、ホームヘルパー派遣の仕事、福祉課の障害者手当支給事務、区の単独事務を併せて行う部署となりました。組織改正の段階では、僕の担当は軍人恩給担当だったので、障害者福祉課ではなく、別の部署に行くとばかり思っていました。ところが、当時の厚生部長の鶴のひとこえ、「八柳卓史(たくし)君は福祉タクシー制度づくりの担当がいい!」によって、急遽、障害者福祉課への異動が決まったのです。後で部長から直接聞いた、冗談みたいな本当の話です。
 課創設時の仕事は、身体障害者福祉法の相談、補装具、日常生活用具、施設、ホームヘルパー、精神薄弱者福祉法の相談と施設、国の福祉手当、区の障害者手当などの既存の施策と、国際障害者年行動計画作成と福祉タクシー制度が新たな施策で、予算の項目で11種類しかない時代でした。
 新規施策の相棒である国際障害者年担当主査(係長級)は、その職務上の立場にも関わらず、福祉ぎらいを標榜し、いつも「福祉を受ける人はだめな人。」的なことを、ぶつぶつ言う人でしたが、ある日「自分の子が障害児なら殺す。」などと宣わったので、普段は温厚な僕も大げんかで、職場で怒鳴り合いました。そして最後は「八柳はソ連が好きだろう、俺は嫌いだから話しても仕方ない。」と言って逃げていきました。思い出深いのは、その時、職場の皆が寄ってきて、「よく言った。」と励ましてくれたことです。この担当主査は、翌年、他の部署に異動していきましたが、当然のように送別会はありませんでした。
 1990年3月まで、9年間この障害者福祉課に居ましたが、最初は11項目の予算が、異動するときは58項目に増えました。その新設された制度の半数以上の企画立案や要綱づくりに関わらせてくれた、当時の上司や同僚に、今でも感謝しています。福祉に無理解な公選区長時代が長く、予算の確保は大変でしたが、同じ障害当事者として、肢体障害者はもとより、視覚障害者、聴覚障害者や知的障害者などの仲間にとっても、少しでも使いやすい制度にしたいと思い続けた9年間でした。あと、車いすを常用し始めたのもこの頃で、職場旅行にも積極的に参加し、通常ないことですが、異動した後も続いて2回も職場旅行に呼びかけられ参加できたことも、うれしい思い出です。

福祉畑まわりと組合活動
 次に行ったのが生活保護課の仕事でした。課長に挨拶した時、言われたことは、「保護率のすぐのV字回復はできないよ。」という言葉でした。その課長の前課長時代に「福祉が人を殺す時」という題名の本が出るくらい、荒川区の生活保護は荒廃し、新規の保護申請は一切受け付けないという時代でした。大橋巨泉のテレビ番組に当時の区長が呼ばれて保護行政の問題を指摘されるという事件があったぐらいです。その、区長と課長が変わった直後のことでした。僕も異動したら何ができるのかを模索したいと考えていましたが、残念ながら、ケースワーカーにはさせてもらえず、生活保護電算システムの保守と新規開発担当でした。たぶん、八柳は外回りが必須なワーカーは無理だろうという「配慮」からだったと思います。たしかにその面は否めなかったけど、直接ぼくに聞いてほしかった。
 職場全体の雰囲気は、障害者福祉課時代と180度異なり、皆が皆、早く異動したがっている状態でした。やはり、人を貶める姿勢の仕事は、自らも貶めることになるようです。
 ただ、電算システムの開発自体は、結構おもしろく、制度に精通しないとシステムのチェックも出来ないので、東京都の作った生活保護マニュアルの間違いを探し出したりして、悦に入っていました。結局、新規システムの導入とともに、僕にしては珍しく4年間で次の職場に異動となりました。
 1993年4月から児童福祉課に異動して児童扶養手当の仕事に就きました。その後2年毎に児童手当、ひとり親手当などを担当しました。
 ちょうどこの頃、労働組合の執行委員となることとなりました。当時、自治労傘下の組合では、「障害労働者連絡会」という組織があり、障害者の組合員の諸課題を組合運営や当局への要求にくみ上げる動きがあり、僕も、組合大会などで発言したりしていたので、その意味も含めて執行委員を引き受けざるを得なくなりました。毎年の統一要求づくりの際、職場にいる障害者仲間の懇談会を開き、主に職場環境の改善要求が中心でしたが、要求にまとめ、少しずつ改善を勝ち取ってきました。予算額は大きくないのですが、本当に、ちょっとした改良で使いやすさや安全性が増すことを実感しました。やっぱり、当事者仲間の視点は鋭いと改めて感じました。

再び障害者福祉課へ
 2002年3月、突然、当時の障害者福祉課長が訪ねてきて、どんな仕事ができるか聞かれました。パソコンは得意ですと答えたら、なんか満足そうに帰っていったので、また、戻るのかなと思ったら、大当たりでした。実は2000年に2003年度からの障害者支援費制度導入が既に決まっていたのですが、荒川区では全く準備していなかったのです。導入前年度になって、国際障害者年行動計画当時の古参兵が呼び戻されたみたいです。ところが、この後は、さあ大変の自立支援法まで続く大バトルでした。あまりにも時期が近く生々しいので、10年ぐらい時効が成立するまでのお楽しみにしておきます。ただ、役所に泊まり込みで仕事したことなどがあったぐらいで止めておきます。

合理的配慮と就労
 最初に「合理的配慮」と言う訳語が適切かどうか。僕にとって「配慮」には、何か「おもいやり」につながる、配慮する側の独断を感じます。「便宜」の語感が悪いから等、他に適当な訳語がないなら仕方ないと思いますが。
 さて、就労で、合理的配慮が必要な場面が実際的にはどんな場面かというと、どんな就労場面でも同じだと思いますが、まず「人に合わせて仕事を再構築する。」ことが大切だと思います。最後の職場でも、全盲の同僚が居ました。もちろん墨字は全く読めません。ただ彼は理学療法士だったので、補装具の製作の際の立ち会い検査や電話相談、テープから議事録をおこすなど、かなり積極的に申し出てくれて、周りのワーカーも本人に頼むような関係性を作っていました。もちろん電話相談などを行うには、常時最新の情報を、本人に音声言語で伝えなければなりません。配慮と言うよりアテンダントの確保も出来れば必要だと思います。
 もう一人、職員課で出勤簿整理を行っていた聴覚障害の仲間は、25年間、最後まで同じ仕事でした。1980年代の終わり頃、異動させようと画策したのですが、「人に合わせて仕事を再構築する。」ことの必要性を、管理職はもとより現場の労働者も中々理解してくれないのが現状でした。25年間パソコンのデータ処理を続けたので、目が疲れやすくなってしまって、辛いと訴えていましたが、定年退職が目の前に迫っていたので、本人が異動はあきらめてしまいました。
 車いす利用者や歩行困難者にとっては、執務室の物理的狭さと床に這っているコードが支障になっています。特に、机といすの周りや通路に山と載まれた書類、パソコン導入による電源やLANコードで転倒することは日常茶飯事となっています。車いすになったら異動する課が自ずと決まってしまうという現状もあります。「障害をもつ労働者懇談会」で、執務スペースの1人あたりの最低基準を大きく見直すようにと要求してきましたが、こればかりは、個別に対応するという回答を突破することが出来ませんでした。
 あと、精神病を患った仲間への対応です。僕の職歴の中で、全ての職場で精神病を患った仲間がいました。最初の外国人登録の職場では2人でました。一人は担当交代で軽癒、一人は長期休暇となりましたが、「いつでも本人が帰って来られるように、残りの5人で頑張って、席を確保しよう。」ということで、かえって結束が固まったことがありました。本人は何回か復職しましたが、4年ぐらいで病状が重くなり辞職されたのは残念でした。
 障害者福祉課時代にも、うつになった仲間が、仲間からの適切な医者紹介と配置替えで復帰しました。ただ直近の障害者福祉課時代には、事務量が並大抵の量ではなくなってきた状況のなかで、仲間の病状を気づかう余裕が少なくなってきていることも事実でした。やはり、基本的に全体的な労働条件の緩和が、合理的配慮にとっても必要と思います。


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事務局からの一言
 働く一人一人の人にあわせて、仕事のほうを再構築していく、という方法論が、多岐にわたる仕事のなかで見出されてきたということがよくわかりました。
 「配慮」という言葉をめぐっては、さまざまな考えがあるところだと思います。そのうえで、権利条約がいう「合理的配慮」には、アテンダントを使って職務を遂行することも含まれます。個々具体的な場合に応じて、どんな条件設定が必要なのか。それを、それぞれの現場で一方通行ではなく双方向で考えて進めていくことが今後の課題ではないでしょうか。
 締めくくりに書かれている、全体的な労働条件、労働環境がもっとよいものになることが必要!ということは、障害の有無にかかわらず、まさにその通り!ですね。


初出 「障害者欠格条項をなくす会ニュースレター」44号 2009年3月発行


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