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フィンランドの緑の風 カッレ・キョンキョラさんの旅立ち

2018年09月20日 国際協力/海外活動

悲しいお知らせです。人工呼吸器をつけた電動車いすに乗り、さっそうと世界各地を駆けめぐっていたカッレ・キョンキョラさんが2018年9月11日、肺炎のため68歳で逝去しました。

フィンランドのヘルシンキ大学在学中(1973年)に障害者団体「キュンヌス(敷居)」を設立し、1983年~87年には国会議員(フィンランド緑の党委員長)を務め(他にもヘルシンキ市議会議員・ヘルシンキ市参事会役員・ヘルシンキ市社会福祉委員会委員・ヘルシンキ市保健委員会委員長を歴任)、国際的にも、DPIを中心にヨーロッパDPI議長などを歴任されました。

戦禍のカンボジアに乗り込み、障害者団体の設立に尽力したその行動力により、1994年からはDPI世界会議議長に就任したカッレ・キョンキョラさん。彼の訃報に、世界中から悲しみの声が寄せられています。

以下、DPI日本会議の追悼文です。


カッレ、キョンキョラ氏への追悼のメッセージ

2018年9月20日
認定NPO法人DPI日本会議役員一同

カッレ、キョンキョラ氏のご逝去を知り、驚愕いたしております。いたってご壮健と伺っていただけに、申しあげる言葉もございません。
私たちを含め世界の障害者にとってキョンキョラ氏の存在は大きく、そのご逝去は、大きな世界的損失であり、悲しみを抑えられないものです。

キョンキョラ氏は、1994年12月に開催された第4回DPI世界会議シドニー大会でDPI世界会議議長に就任されました。就任当日は、大会会場において2002年に日本(札幌市)がDPI世界大会の誘致に取り組んでいることを報告し、理解と協力の確認を得ました。
その後、1996年2月にカナダ(ウイニペグ市)で開催された第7回北方都市市長会議では、キョンキョラ氏は、桂 信雄札幌市長(当時)と対面し、札幌市における世界大会の開催に向けた協力を要請しました。同年6月には、DPI世界会議議長として来日頂き、第12回DPI日本会議全国集会in福岡に出席頂くとともに、日本政府の管 直人厚生大臣(当時)や堀 達也北海道知事(当時)を表敬訪問し、日本の受け入れ態勢を確保するためのご協力も頂戴しました。
この来日時に札幌市で、ご覧頂いたYOSAKOIソーラン祭りの会場では、「みなさん(障害者)もこの祭りに参加しては」との提言を受け、翌1997年の障害者と障害のない人たちで構成した動夢舞(ドンマイ)の結成と祭りへの参加につながりました。この動夢舞(ドンマイ)は、2002年第6回DPI世界会議札幌大会(以下、DPI札幌大会)の誘致と共生社会の実現を社会にアピールした活動を展開するとともにDPI札幌大会の歓迎レセプションのアトラクションとして演武を披露し、現在も活動を継続しています。
そして、1998年12月に開催された第5回DPI世界会議メキシコ大会では、その前日の世界評議会において、様々な意見が交わされながらもリーダーシップを発揮され2002年に日本(札幌市)でのDPI世界会議開催を決定しました。

キョンキョラ氏は、1998年12月でDPI世界会議議長を退任されましたが、その後も、前DPI世界会議議長として、DPI札幌大会の初日のシンポジウムへの登壇をはじめ、この大会の成功と日本の障害者運動の強化に多くのご協力とご助言を頂戴しました。

DPI世界会議in札幌大会、中央がカッレ・キョンキョラさん

<2002年DPI世界会議in札幌大会、中央がカッレ・キョンキョラ氏>

カッレ・キョンキョラさん
<カッレ・キョンキョラ氏>

キョンキョラ氏と私たちとの交流は、2013年6~7月に来日して頂くなど、その後も、継続し、特に北海道とは、相互訪問も実施してきました。
日本は、障害者権利条約(2014年批准)を批准するために実施した障がい者制度改革による障害者基本法改正(2011年)、障害者差別解消法制定(2013年)等の後に条約を批准しました。そして、現在は、私たちは、条約の実効性を高めるための運動を継続しています。

カッレ・キョンキョラ氏のご逝去は、ひとつの時代の幕引きと感じますが、それは、残された私たちが、キョンキョラ氏の想いと運動を引き継ぐ場であり、更なる障害当事者運動の発展に向けたバトンタッチの場であると私たちは、思っています。
カッレ・キョンキョラさん。ありがとうございました。同じ時代をともに生き、ともに活動できたことに心から感謝申し上げます。これからは、天国から故三澤 了元DPI日本会議議長とともに、私たちの運動を見守ってください。


中西由起子(DPI日本会議副議長)

カッレがいなくなってしまったことは、悲しいです。逝去の報が入る数日間のファイスブックには病室での彼の写真が載っていて、でもまた元気になのだと信じていました。

彼は日本にも3回来日し、DPIの世界会議や評議会などの国際会議、さらにフィンランドへの訪問もして、彼のことは結構知っているつもりでした。でもスウェーデンのアドルフ(呼吸器使用の自立生活運動家)の追悼文をよんでいたら、私たちの知らない多くのことを彼は成し遂げてきたので、アドルフに翻訳掲載の許可をもらって以下の追悼文を掲載します。


アドルフ・ラツカ
(訳:全国自立生活センター協議会 嶋村有紗)

カッレ・キョンキョラが私たちを残していってしまいました。2018年9月11日に、68才で亡くなりました。
彼は生きている間に既に伝説となっていました。電動車いすに乗っている小さなその男性は、気管切開を受け、24時間の介助も必要としている、それなのに、行く先々で障壁を壊してきました。

彼がフィンランド議会に選ばれたとき、議会は彼や彼に続く人達のためにアクセス可能な建物を作らなくてはなりませんでした。フィンランドの障害問題のアンバサダーとして、広範囲に渡り世界中を旅して、多くの障害に関するサミットに参加し、障害と開発に関する課題の相談者や世話人として南の国々を訪ねました。

フィンランド航空は彼が機内で呼吸器を使うために、ビジネスクラスに電源コンセントを設置しなくてはいけませんでした。彼が政治家になって間もないころ、緑の党はフィンランド市の北部にある彼がアクセスできない場所で政治集会を開催しました。

その時、彼は電車に乗ってそこまで行き、近くのレストランで予定になかった記者会見を開き、移動と社会参画は人間の権利であることを指摘し、4時間かけて電車でヘルシンキへ戻って行きました。

彼の問題提起は失われていません。こんにちでも、いかなる団体にとっても移動のために車いすを使う人を排除することは恥ずべきことだとしています。彼が議員になった時、医師は彼の障害程度を判定し直しましたが、それはカッレが彼の介助者を失うというものでした。彼は強制的に居住施設に入れられ、朝起きる時間を決める権利がなく、その結果として、大事な議会の決定に参加できなかったのです。居住施設と介助者の不足についてメディアの注目を集め、彼はついに介助者と人間としての自由を再び手に入れました。

カッレは生まれた時から筋ジストロフィーであり、医者も含めみんながそのように診断された人は30代まで生きることができないと思っていた時代でした。呼吸器や気管切開を使っていてもそのおかげで、彼は大学でコンピューター科学を学び、1973年に障害がある学生の団体をつくり、いわゆる“一般的な”生活を送ることができました。

団体は「敷居(Kynnys Ry)」というフィンランド初の人権と自立生活を基本とした障害団体となりました。カッレはヘルシンキ市議会で19年間働きました、フィンランド緑の党の共同創設者であり、その初の全国議長であり、1983年から1987年までは国会議員、DPIの共同創設者でり、そのヨーロッパブロック議長、その後世界議長を務めました。カッレは1998年に「Abilis(アビリス)」というフィンランドの財団を設立し、先頭に立ってきました。Abilisはフィンランド外務省の支援を受けながら、障害者自身が計画と実施をする小さくて、信頼できる、質の高いプロジェクトを財政支援ことにより、南の国々の障害者のエンパワーメントと自立生活、社会統合を促進してきました。

カッレは医者の間違いを明らかにしました。多くの人の予想を超えて彼は長生きしただけでなく、国内外で人間の権利と自立生活に関する偉大な業績を残し、ごく最近では、特にアフリカ地域の難民の障害者のために尽力していました。

彼はフィンランドで最も有名な障害者になっただけでなく、確かにフィンランドという国のあり方に影響を与えたに違いないでしょう。彼の友人たちは、彼が人生を心から楽しみ、音楽と美術、詩、よい仲間、よい会話、よい冗談とよい食事を愛したことを知っています。彼と魅力的な赤い髪のMaijaは1976年に結婚しました。2012年に彼女が死ぬまで、彼女は実に素晴らしい国際的な影響力のある建築家であり、建築におけるアクセシビリティは美しいデザインには支障がないことを示してきました。彼は子供向けの本をイラストレーターの友人と一緒に書き、出版ました。彼はフィンランドの地方にある別荘をとても気に入っており、夏ごとに丸々ひと月そこで過ごしていました。
カッレが私たちに教えてくれたことは何でしょうか?彼の人生は、障害があるということはあなたが最善をつくすために努力しないことの言い訳にならにと教えてくれました。あなたがやっていることに成功することは、あなた自身の仕事を楽しむこと、人と一緒に働くことを楽しむこと、出会った人を気に掛けることを助けてくれるのです。皆が、カッレがよく使った辛口のフィンランドのユーモアを併せた明快な思想をもっているわけではありません。しかし、努力していくことに支障はありません。

 

海外でのカッレ・キョンキョラ氏への追悼文(外部リンク、すべて英語)

▽Internationl Disability Alliance
▽SAURA
▽European Disability Forum

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